見えない地図に迷う日々:方向や位置関係の困難と向き合う声
「方向感覚がないって言われますが、それだけではないんです」
そう語るのは、都内在住のAさん(40代)です。Aさんは、子どもの頃から方向感覚や地図の理解、自分が今どこにいるのかを把握することに人一倍苦労してきました。単なる「方向音痴」という言葉では片付けられない、日々の生活に深く根ざした困難があると話します。今回は、外見からは見えづらいこの困難と、それに向き合うAさんの声に耳を傾けます。
日常の中に潜む「見えない迷路」
Aさんの困難は、初めて訪れる場所だけでなく、慣れているはずの場所でも姿を現すといいます。
「例えば、近所の駅やショッピングモールの中でも、自分がどの方向に進めば目的地に着くのか、すぐに分からなくなります。建物全体の見取り図を見ても、そこに書かれている情報と実際の空間が頭の中でうまく結びつかない感覚です。駅から地上に出ても、どっちが北でどっちが自宅方向なのか、コンパスがないと自信が持てません」
スマートフォンの地図アプリも常に頼りにはしていますが、それでも課題が残るとAさんは語ります。
「アプリは確かに便利ですが、画面に表示される地図上の自分の位置と、実際の周囲の風景や建物との関係性を瞬時に把握するのが難しいんです。『今、自分が地図上のどの点に立っていて、どちらの方向を向いているのか』という基本的なことが、すっと頭に入ってきません。立ち止まって、何度も画面を見直したり、周囲を見回したりする必要があります。人が多くて立ち止まりにくい場所だと、それだけで焦ってしまいます」
さらに、口頭での指示にも苦労があるそうです。
「『この道をまっすぐ行って、二つ目の角を右に曲がって、突き当たりを左』といった複数の指示を聞くと、最初のうちは覚えていても、歩いているうちに順序がごちゃごちゃになったり、今自分が何番目の角にいるのか分からなくなったりします。メモを取るか、一つずつ確認しながらでないと、まず目的地には着けません」
募る孤独感と自己肯定感の低下
このような困難は、Aさんに様々な感情をもたらしてきました。
「待ち合わせ場所に時間通りに着けなかったり、目的地にたどり着くまでに想像以上に時間がかかったりすることが頻繁にあります。相手を待たせてしまったり、迷惑をかけているのではないかと考えると、申し訳ない気持ちになります。友人と一緒に行動する時も、『また道を間違えたらどうしよう』という不安が常に頭の片隅にあります」
幼い頃から「方向音痴だね」「地図も読めないの?」といった言葉をかけられることが多く、Aさんにとってそれは軽口として受け流せるものではなかったといいます。
「単なるうっかりや不注意として扱われてしまうことが多いのですが、自分にとっては真剣な、そしてどうしようもない困難なんです。それが理解されないと、『自分はおかしいのかもしれない』『簡単なこともできない人間なんだ』と、自己肯定感がどんどん下がっていきました。外見からは全く分からないことなので、説明するのも難しく、結果として一人で抱え込んでしまうことが多かったです」
新しい場所へ行くこと自体が、Aさんにとっては小さな冒険であり、同時に大きなハードルとなります。
「知らない場所へ一人で行くのは、かなりのエネルギーが必要です。事前に必死に調べても不安は残りますし、移動中は常に緊張しています。そのため、出かけること自体をためらってしまうこともあります。行きたい場所があっても、移動の困難さを考えて諦めたことは何度もあります」
小さな工夫と社会への願い
このような困難と向き合うために、Aさんはいくつかの工夫をしています。
「とにかく事前に徹底的に調べること、そして時間を多めにみて行動することが基本です。人に頼ることも、以前より抵抗なくできるようになりました。正直に『方向感覚が苦手なんです』と伝えることで、助けてもらえることもあります。失敗しても、昔ほど自分を責めないよう、少しずつ考え方を変える努力もしています」
Aさんは、この困難について語ること自体が、同じような経験を持つ誰かにとって、一人ではないと感じるきっかけになればと願っています。そして、社会に対しては、一つの理解を求めています。
「『方向音痴』という言葉で笑い話にされるのではなく、そこに具体的な困難がある可能性があるということを、少しでも知っていただきたいです。見えないところで苦労している人がいるということを想像してもらえるだけで、私たちにとっては大きな救いになります」
Aさんの言葉は、外から見えない、けれども確かに存在する困難が、当事者の日々の生活や心に深く影響を及ぼしていることを教えてくれます。特別なことではなく、日常の中で当たり前にできることが、特定の誰かにとっては大きな壁となっている場合があります。Aさんの「声」が、そのような見えない困難への理解と想像力を広げるきっかけとなることを願わずにはいられません。